この世はおおまかに2種類の人間にわけることができる。
その2種類とは、「設定6のパチスロに座ったことがある人間」と「設定6のパチスロに座ったことがない人間」だ。
当然あたしは「設定6のパチスロに座ったことがある人間」の側に属してるワケだけど、まあ、設定6のパチスロに座ったことがある人間っていうのは、幸か不幸か、高確率でパチンコ・パチスロから逃れられない人生を歩むことになる。
ソースはあたし。パチンコ4号機時代と寝た女であるパチンコ・パチスロ家田壮子の異名も持つあたしは、設定6のパチスロを打たなかったら、今頃はもうパチンコにもパチスロにも縁がない暮らしをしていたんじゃないかな、と思う。
あたしはさっき「パチンコ・パチスロから逃れられない人生」と言ったけど、設定6を打ってしまうということは、「パチンコ・パチスロに人生を狂わされる」ということを意味してもいて、もちろん「パチンコ・パチスロに殺されてしまった人たち」もかなりいた。
「パチンコ・パチスロに殺されてしまった人たち」というのは、比喩でもなんでもなくて、「そういう事実が本当にあった」ということだよ。
パチスロの4号機とは
パチスロの4号機ってのは、3号機末期のパチスロ人気の低迷を受けて、その打開策として1992年から登場した当時の新機種。
パチスロ4号機は、現在のパチスロにつながるような様々な特徴を持っていた。
たとえば、液晶が導入されたのは4号機が初めて。あとは、リプレイ機能がついたり、ビタ押しできない人でも勝てるようにシステムが改善されたりと、4号機の登場はほとんど「革命」でさえあった。
4号機は出玉規制とのからみあいでめまぐるしく変更が繰り返されて、4号機から4.7号機まで機種がバージョンアップされている。
このうち「4号機時代のスロット」として認識されてるのは「4.1号機から4.5号機までの4号機」になるかな。
パチスロブームのはしりになったのは『獣王』という機種で、そこから『サラリーマン金太郎』や『アラジン』みたいな爆裂AT機が登場して、とどめのように『ミリオンゴッド』が登場して、4号機は終わりまでの速度をどんどんはやめていった。
「射幸心の限界」に挑戦して爆死した、というのが4号機の最大の特徴だろうね。
パチスロの4号機が黄金時代と呼ばれた理由
パチスロ4号機時代はパチスロ打ちのあいだでは「黄金時代」に位置付けられているけど、その理由は「2001年以降の4号機の出玉が社会問題になるほどのすごさだったから」ということに尽きるね。
4号機の登場自体は1992年なんだけど、「4号機時代」という言葉を「黄金時代」っていう意味で使う人は「2001年以降の4号機時代だけ」を4号機時代と言っている傾向がある。
2001年以降の4号機時代は、「出玉の回復」と「自主規制」の繰り返しで、最終的には「自主規制」が勝って終わりをむかえることになった。
4号機時代の終わりは2007年ってことになってるけど、これも「黄金時代」という意味で言葉を使っている人にとっては「4号機時代の終わり」は、2004年の「5号機の登場と、4.7号機以外全滅」までを「黄金時代」という認識になると思う。
2004年以降のパチスロは出玉規制で勝てないのが基本になってしまったから、パチスロ4号機時代の終盤を「黄金時代」と呼ぶ人はほとんどいないね。
2001年から2004年までの4号機時代は、黄金時代でもあったんだけど、「社会問題」としてパチスロが注目された時代でもあった。
借金をしてでもパチスロを打つ人が多数登場したのがこの時期で、パチスロが原因で借金苦による自殺者も出るほど、当時のパチスロをとりまく状況はすさまじかったわけ。
「パチスロに殺された人もいる」といったのが比喩じゃなくて事実だよ、っていうのは相当数の自殺者がいたからなんだよね。
4号機時代を象徴する数字としての設定6
設定6という数字は、パチンコ・パチスロ4号機時代という黄金時代の異常さを象徴する数字だ。
「パチンコ・パチスロから逃れられない人生」のなかでもっとも悲惨なのが「殺される」というパターンで、「逃げることができず、殺されてしまった」ということを意味してる。
だから、設定6っていうのはある種「悪魔」の数字でもあるといえるね。
4と6っていう数字の組み合わせはパチスロ打ちにとっては特別な意味がある数字で、坂道シリーズの専売特許の数字じゃないってワケよ。
あたしの場合は「殺されずに済んだけれど、パチンコ・パチスロから離れられなくなってしまった」というパターンで、わりかし幸福なルートといえる。
ちなみになんだけど「設定6なんて台には二度と座れない」って失望して、パチンコ・パチスロをやめていく連中もいて、こういう連中は「パチンコ・パチスロから逃げられた人間」ということになる。
設定6という数字は、こういった「逃げられた連中」にとっては「希望」の数字であって、4号機時代以降は「希望」が失われた時代ということになる。だから、逃げられたし、パチスロから足を洗えた。
「設定6の台はまだあるんだ」って信じている人間もけっこういるんだけども、そういう人間は現代のパチンコ・パチスロの状況と現実を直視できないでいる「4号機時代の夢から覚めていないだけの連中」ということなるね。
と同時に、「4号機時代の夢」を見ている彼らとは違った立場から考えた場合に限り、「考え方次第ではいまでも設定6はある」ということもできる。
ここから、「4号機時代の夢」としてではなくて、「設定6という状況だけはいまでも起こりうる」ということについての、あたしのパチスロ哲学から導き出された認識を書いていくよ。
もう設定6の台に座れない、ということは本当か?
「5号機以降のパチスロ打ちは設定6のパチスロを打つことができない」というのははたして本当だろうか?あたしは「そうではない」と考えている。
あたしは別に5号機以降のパチンコ・パチスロしか知らない若年層を下に見ているわけじゃないし、否定もしたくないし、むしろパチンコで繋がっているとさえ感じている。
「設定6はもう絶対に体験できない」という「あきらめ」が支配していることは、パチスロ人口の減少の背景としては間違いなくあると思う。
だからこそ、「5号機以降のパチスロ打ちは設定6の未経験者にしかなれない」という固定観念こそを、あたしは覆していきたいと考えているワケ。
4号機時代という黄金時代は、「設定6の台がある」ということが無邪気に信じられただけであって、実際は、すべての人が「設定6の台に座った」とはいえない。
むしろ、「設定6」にこだわりすぎて「設定6の台から見放された人」がもっとも多かったのが4号機時代だったのではないか、という歴史認識があたしにはある。
「設定6のスロットは、実在するものではなくて、パチスロ哲学のありかたによって5号機以降のスロット打ちでも座ることが可能な台だ」という主張こそが、今回のあたしの記事の狙いだ。
パチスロで勝てる可能性がある数字としての設定6
設定6という数字は、一言でいうなら「パチスロで勝てる可能性がある数字」のことだ。
時々、設定6という数字を「絶対に勝てる」という意味に理解している人がいるけど、これは大きな間違い。
あくまで「勝ちやすい」「勝てる可能性が高い」ということであって、設定6の台でも負けてしまう人はいるんだよね。
設定6という数字が「悪魔」でもあり「希望」でもあるのは、「打ち続けていれば勝てるかもしれない」という感覚をスロット打ちに植えつけたからで、異常なまでに射幸心をあおる数字であったから。
あたしはむしろ、設定6のパチスロからは「どんだけ高確率でも当たることを確信してはいけない」という教訓を学んだように思う。
あたしはパチスロにおいて「勝つこと」をあまり重視していないけれど、それは、設定6によって「絶対に勝てる」と信じてしまった人たちの末路を見過ぎたせいなのかもしれない。
設定1と比較した場合の設定6の勝ちやすさ
設定1と比較した場合に、設定6の「勝ちやすさ」はとてもわかりやすく理解できる。
設定1というのは、出玉がもっとも出ないようにプログラムされている設定で、台にもよるけど、大体「40%くらいの勝率」が設定されている。
で、設定6というのは、おおよそ「80%~90%あたりの勝率」に設定されている数値で、設定1と比較した場合に、その「勝ちやすさ」は明らか。
「90%の勝率」と思って打つパチスロが、人に「絶対に勝てる」という錯覚を抱かせてしまうのは、仕方のないことでもあると思う。
だけど、パチンコ・パチスロに限らず、ギャンブルにおいて目を向けなければならないのは本当は「残りの10%」のほうで、「ギャンブルには絶対なんてない」というクールな姿勢なんだ。
恍惚と陶酔と、判断力の退化と、冷静さの喪失、そして、「勝てるはずだから、打ち続ければ、勝てる」ということの繰り返しによるパチスロ依存状態。
隣で打っている人間の大当たりを目の当たりにしたときの「自分も設定6だから/設定6なのに」という焦りと怒り。自分が大当たりだったときの快楽と救い。
パチスロの設定6という数字は、4号機時代の人間の多くを「麻薬中毒」に似た状態にしてしまったんじゃないか?とあたしは考えている。
設定6というパチスロ打ちたちが抱える永遠の謎
「そもそも本当に設定6なんて台があったのか?」ということが、現在でも結論が出ない議論であり、パチスロ打ちたちにとっての「謎」のまま残っていることも指摘しておかなければならない。
あたしとしても、「設定6なんて台はあるのか?」という謎に対しては、まだ明確な答えを出すことができていない。
ほとんどが設定3以下とされている現在まで続くパチスロの状況を長年眺めていて、あたしの意見が「設定6は存在しなかった」という考えに傾きつつあるのも事実。
さきほど書いたように、設定1と設定6のあいだには2倍ほどの勝率の隔たりがあるけれど、90%に届かんとする勝率でも負ける人は負けるし、40%の台でも勝つ人は勝つ。
身も蓋もない意見かもしれないけれど、結局「運」に見放されているならば、「90%も0%も同じ」になるのが勝率というもの。逆に言うなら、当たる人にとっては「40%と100%は同じ」ということになる。
パチスロの本当の勝率は台ではなく人のほうにある
あたしが「設定6は存在しない」という意見に傾きつつあるのは、「勝率」というものがじつは「台」ではなくて、「人」のほうにこそある、と確信的に考えるようになったためだ。
設定にこだわる人は自分の「負け」をスロット台のせいにすることを何度も繰り返してしまうが、本当は「負け」の原因と勝率が自分にこそあるということにはなかなか気づけない。
あたしが「設定6は存在しない」言うときに、その意味するところは「自分の設定が6になることがある」ということだ。
めちゃくちゃなことを言っているように聞こえるかもしれないけど、「人はときどき設定6になることができる」ということを私は主張していることになる。
設定6の台は存在しない。だけど、設定6の人間はいる。台の設定と人の設定が重なる瞬間にだけ「設定6」が立ち上がる。
ここであたしが言いたいのは「神秘的なこと」ではなくて、「パチスロを打つときの心構え」の問題だといえる。
設定にとらわれた精神を解放させてパチスロを打つ
設定6について考えているうちに、あたしの結論は「設定にとらわれた精神を解放させてパチスロを打つ、ということが重要なんじゃないか?」という方向へと向かっていった。
4号機時代をくぐりぬけてきたあたしは、冒頭でも書いたように「設定6によって殺されてしまった人たち」を相当数見てきてしまった。
設定6にこだわって打ち、設定6を信じて打ち、設定6に裏切られても打ち、設定6に殺されるまでパチスロを打った人たち。彼らは全員、人としては設定1だった。
あたしは「台に認められる」という感覚をなによりも重視している。
だから、「設定6を体験する」ということは「スロット台に認められて、スロットのほうから自分の設定を6にしてもらった、という体験」としてあらためて語られていかなければならない、とあたしは感じている。
あたしが「設定6の台に座ったことがある」といい「設定6を体験したことがある」と言うとき、それは「パチスロと自分が完全に一致した」「パチスロがあたしを認めてくれて、自分と同じ設定にまで引き上げてくれた」ということを言っていることになる。
あたしが「設定にとらわれない打ち方」を心がけたときに、はじめてスロット台が「設定6としての自分」を開いてくれた、という確かな手応えがある。
「設定6未経験である」ということの強みとして、「設定にとらわれた思考」に陥らずにパチスロを打てる可能性が高い、ということが挙げられる。
そして、そういう人間にこそ「設定6」というスロット側からの恩寵が不意にあたえられる。
パチスロの設定6にまつわるまとめ
- 設定6というのは「勝ちやすい」であって「絶対に勝てる」ではない
- 本当はスロットではなくて人のほうにこそ設定がある
- 設定にとらわれない精神でスロットを打つほうがよい
「人が設定を忘れてスロットを打っているときに、はじめて設定がやってくる」というのが、設定6の問題を徹底して考えたあたしの、現在の結論ということになるだろうか。
冒頭からあたしが繰り返し使っている「設定6のパチスロに座ったことがある人間」という言葉は、「設定6の自分になったことがある人間」ということを意味している。
4号機時代に「設定6の自分になれなかった人たち」をたくさん見てきたあたしが確信的にいえるのは、「設定6の台がない」と嘆かれる現代においても「設定6の自分になれる人」が一定数いるんだ、ということだね。
「設定6の自分」になれるように無心・無欲でパチスロを打つ。これが何よりムズカシイし、だからこそパチスロはおもしろいんだよ。